心と体

2014年6月12日 (木)

コミュニケーション欲

 最近、「食欲」・「睡眠欲」と同じ位置に限りなく近づいていると感じる「コミュニケーション欲」。

 一次的欲求、つまり「生きるための欲求」の中に「コミュニケーション欲」が含まれてもいいのではと考えるようになった。

 そんな名称の欲求があるかどうか知らないが、勝手な私の造語(あっても不思議でないが)。

 「コミュニケーション欲」が満たされなくても「死」に至るわけではない(そういう意味では二次的欲求の性欲等に近い)が、「会話」の時間が無いだけで、日に日に弱っていくご老人たちの姿を目の当たりにしたことがある。そう考えるとやはり「生きるための欲求」なのである。

 今日本は、私の父(85歳)を含め会話に飢えている年配者が多くなっている(今更の話でもあるが)。父の場合、私が実家に帰ると、できるだけ色々な人を家に呼び、人との関わりを求め楽しんでいる。それだけでも家に帰る意味があると思ってる。

 世の中は少子高齢化の影響もあるかと思うが、会話が無い、対話が無い、いわゆるコミュニケーションを取る機会が極端に減ってきているのである。

 「コミュニケーション欲」を「会話欲」・「対話欲」に置き換えてもいい。

 今私たち(年配者ではないと自覚している者)にできることは自分の身近にいる年配者に対する「思いやり」の心であると思う。年配者の欲求不満解消の中に「コミュニケーション欲」解消があることを知ってほしい。

 そして、その思いやりの行為(話し相手になってやる)が「命」を救っていると言っても過言ではないと思う。

 「老人ホーム」と「保育園」や「幼稚園」との交流の話は最近よく聞く。

 それを「小学校」や「中高校」との触れ合いの場面まで作れないか、考えてみたいと思ってる。

 これはあくまで個人の考えなので簡単には実現できないが、何か工夫・努力してみたい。

 

 私は年齢に関係なく、色々な仲間にカマってもらってる。生徒を含めると12歳から85歳あでと付き合っている。このカマってもらえる事が継続できるようにかわいいジイさんになりたいと思ってる。そして、中学生からは「若さ」をいっぱい吸い取っておきたいと思う。

 結果、「コミュニケーション欲」だけは常に解消していたい。

 その頃は「性欲」は解消でなく、消滅というのだろうか?

 まあ、それはどうでもいいかあ!

 会話・対話までいかなくても、話を聞いてあげるだけでもOKなのである。

 勿論、「ボケ予防」や「ボケの発症」を遅らせる手助けになるかも知れない。

 皆さーん、少し真剣に考えてみて!

 寂しくならないように今から準備しておこう!

 

 

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2013年7月14日 (日)

「育てる」とは?

 私は教師として、親として、「育てる」について特別な感性を持ってる気がする(ちょっと自慢)。

 「育てる」の私なりの定義づけは以下の通りである。

 「育てる」=「その子が育つための環境づくり」ということ。

 今、説明会・受験相談等で感じることがある。

 それは「育てる」=「親の思い通りにする」と思い込んでる親の多いことにはビックリさせられる。当然、親として常識から外れるような成長を期待しているわけではないと思うが、自分の考え通りにしたいと思ってるのは確かである。

 ただ、親が子どもの自発的な動きを始める前に動いてしまうことが問題なのである。

 その自発的な動きを誘発させるのが、「その子が育つための環境づくり」なのだ、と思ってる。親が子どもにヒントを与え、考えさせる。そして、その回答をジッと待つ。最終的にその回答に対してのアドバイスをする。

 私は生徒たちにも自分の娘にもそんな気持ちで接してきた。正直、娘には作戦通り進まないことも多かったが・・・。

 娘は今、娘自身の考え通りの人生を歩んでいるから、「良し」としたい。

 

 親は子どもにとって、「最大の応援者であり、最大の邪魔者」となる場合もある。気を付けたい。

 親として子供に対してのタブーは「○○してあげたのに」を口にしてしまうこと。これは、実は私も教師としても口にはしないが思ってしまうことがある。でも、その度に反省している。

 最近(50歳過ぎてから)は、やっと思わなくなってきた。多分かなり大人になったのだろう(自己分析)。

 そうは言っても、「何か見返り」を求めてしまうのかも。「見返り」といっても、たった一言「先生、有難う」だけで十分なんですけどね。

 親たちの気持ちも同じであることは分かってますが・・・。でも、求めてはダメ!

 これでお子さまにムカつく方は、何もしてあげないこと!

 

 具体的な「育つ環境」とは、「夢が見られる環境」のこと。子どもたちに「夢」を持たせることから始める。次は「夢実現」への協力。その夢にはどれだけの「楽しさ」が詰まっているのか、具体的に検証する。「夢実現」に近づいていく過程が本当に大切。

 「夢実現」までのいくつかのステージ設定を行い、ワンステージずつ具現化していくことへの応援・協力。

 「その子が育つ環境づくり」を意識し、努力した親は自分自身も成長できるはず。

 ただし、「子育て」には色々な考え方があり、自分たちに合った「子育て論」を見つけ出すことが大事だと思う。

 

 そのためには色々な経験された方々のお話を聴くことも必要と思う。

 たまたま、私の尊敬する「子育て論」の神さま的存在、淡路先生(前浅野中高校長)の講演会があるようです。

 子育て悩み中の方はぜひ行ってみて!

 日時   2013年7月25日(木)13時30分~15時(受付13時15分~)

 会場   渋谷フォーラム8  渋谷駅から徒歩5分

 定員   100名

 テーマ  「子どもの社会人力を磨く」

 参加費  無料

 こちらのページで、予約もできるそうです。

 

 

 

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2013年1月13日 (日)

「指導」の難しさ

 今回は「指導死」という初めて聞いた言葉について語ろうと思った。

 しかし、考えれば考えるほど難しい問題であることを感じてしまい、そして軽率な発言は控えるべきとも思い、熟考後いつか語りたい。

 ただ、その前段階である「指導」について自分が「生徒」として、また「教師」としての立場から進んできた道を振り返り、考えてみたい。

 大阪市立桜宮高校バスケット部監督の「行き過ぎた指導」というか「体罰」による、その「体罰」を受けた生徒の自殺、世の中的にも私にとってもかなり「ショック」な出来事であった。

 現在、私も柔道部の総監督という立場であるが、第一番目に心に決めていることが「体罰」はあってはならない、である。今は現場で指揮を執ることは滅多に無いが、現監督・コーチにおいても渋渋柔道部が存続する限り、「体罰無し」も継続することである。

 以前ブログで「厳しさ」と「イジメ」は紙一重と書いたことがある。「厳しい指導者」という表現は、あまり「違和感」を抱かない。しかし、「意地悪な指導者」といったら「悪人」にすら思えてしまう。「意地悪な指導者」は確かに危険だ。

 その辺を見極める力と回避する力を皆さんにも身に付けていただきたい。道はいっぱいあることを思い出してほしい。

 私は小4から高1まで野球、高2からはずーっと柔道。

 私も色々な体験をしてきた。バットで殴られたこともあったし、コンクリートの上に正座2時間なんていうこともやらされてきた。

 柔道では必要以上に絞め落とされたり、という経験などもした。

 時代もあるのかも知れないが、正直なところ「そんなもの普通」ぐらいの気持ちだったようにも思う。ただ、心の中では「絶対に許されないことなのだ!」とも思っていた。

 自分が大人になるにつれて、「体罰は間違いである」という考えが明確となり、その後に教師の道に進んだことも正解と私自身は思っている。増して私自身が子どもを持ち、その親としての気持ちを考えた時、殴ることなどできるはずがないとも思った。

 どんなスポーツであっても、強豪校の監督はカリスマ性や見栄を維持するために選手たちに色々な意味で強くあたってしまう。

 勿論、子供たちのために工夫と努力で素晴らしい指導をされている指導者もいるだろう。

 でも強豪校となるとやはり少ないかも知れない。

 強いチーム作りが子どもたちのためではなく、自分のためになってしまうからである。

 

 渋渋の現況について少し話したい。

 監督の古矢といつも話していることは、生徒たちに「柔道が楽しい」と思ってもらえるような我々サイドの努力だけは、忘れずにいようということである。あとは不思議かも知れないが「柔道がすべてではない」ということ。

 自慢話になってしまうが、昨年はインターハイ団体準優勝・金鷲旗も準優勝、個人では全国制覇という実績を残し、渋渋も強豪校と言われても不思議ではないチームである。

 それでも練習中の「笑顔」、個々の誤魔化し無しの努力、そして「運」があれば、結果は付いてくるものと信じている。

 「指導」とは難しいものだが、永遠に工夫・努力・変化を意識して前進していきたい。

 

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2012年9月27日 (木)

歯痛

 こんな痛み、何年振りだろう?

 夏休み最終日の前日から実は歯痛で苦しんでいた。

 予約が無いとなかなか行けない歯医者さんへ強引にお願いし、治療してもらった。少し落ち着いたと思ったところ、夜中に痛み復活。幸い痛み止めをもらっていたので、何とか朝まで凌ぐことができた。

 ただし、1錠飲んでから最低でも5時間は空けることと書いてあったが、デブは1錠では足りないと自分に言い訳し、5時間を空けることなく、3錠をあっという間に飲んでしまった。

 さすがに痛みは消えた。原因は虫歯だった。治療済みの部分の中が再び虫歯に侵されていた。歯槽膿漏ではなかった。

 何故、夏休み最終日前日からの痛みスタートだったのか、自分では理解できない。余程、学校に行きたくなかったのか、学校に行くために最終日前日だったのか・・・(なんとか始業式に間に合った)。

 でも、意外に久々の休みだったりすると体調を崩したりするものだ。休みと思う安心感や良い意味での気の緩みと思われる。

 そうなると、私も一応緊張感を持って仕事をしている証明したことになるかも。

 確かに、今年の夏は、忙しさ・緊張感・悔しさ・嬉しさが交互に訪れた気がする。結論は充実の毎日であったが、正直気を抜く時間が足りなかったかも知れない。

 歯痛のお陰で、色々な反省ができた。また、あらためて満足感も得られた。

 調子に乗って突っ走ることも大事であり、ズッコケたら一休みも大事である。

 明日は代休をいただき、「人間ピッグ」ではなく「人間ドック」に行ってくる。

 多分、メタボ予備軍だろう!

 

 

 

 

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2012年8月22日 (水)

結果が必要である理由

 「結果を出す」とはどういう意味か?

 特にスポーツに関わりの強い人間にとっては「良い結果(成績)を出す」ことが「結果を出す」いう意味と認識しているはずである。

 それはそれで決して間違いではない、と私も思ってる。

 ただ、ここでの「結果」はちょっと違う意味でのものだ。

 私たちは、日常の生活の中で夫婦・親子・友人・知人・取引先等々の人間関係がある。その中で約束事があったり、頼まれ事があったりする。そして、その事に対しての「結果」をそれぞれの相手に伝えることが自然な流れであると私は考えている。

 例えば頼んだ側にすれば、あまり急がせたりしたら申し訳ないという想いから、「静かに相手の結果(連絡)」を待つこととなるだろう。

 頼まれた側が誠心誠意頼まれた内容について努力していると仮定すれば、急がされるのは確かに辛いし、鬱陶しい。

 しかしながら、出来もしない事・やる気もない事を簡単に引き受け、それっきりの人間もいる。当然、「結果」の連絡も相手にしない。いや、動いてないから連絡できないのだ。あるいは忘れている。

 私は何かを頼まれ、引き受けた場合、なるべく期限を切って「結果」を伝えるように心がけている。そして、いつまでに私から連絡が入らない時は「私が完全に忘れている時なので遠慮なく連絡してほしい。」と付け加えている。

 色々な事情があって、頼まれて努力した結果出来ない事もあるし、出来ると思ってたことが動き出したら無理となる場合もある。

 私は、頼まれ・動き・できた、またはできなかったを伝えることがお互いにとても大切であり、必要なことと最近強く感じている。

 頼んだ側は「良い結果」だけを待ってるのではないことを再認識したい。

 相手が自然に諦める時間を待つのはあまりにも酷だと思う。

 一度引き受けたら「結果(結論)は出そう。」

 その結果しだいで次へ動き出せるのだから。

 

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2012年7月10日 (火)

「厳しさ」と「イジメ」の混同

 私は小さい時から、野球と柔道を(少しだけ)夢中になってやってきた人間だ。当然、色々な指導者と出逢った。

 誰からも「厳しい人」と言われる多くの指導者とも接してきた。

 「厳しさ」とは何ぞや?

 それは妥協せず自己の夢や目標の実現を目指し、努力することと私は思う。

 つまり、「厳しさ」とは自分のために自分自身に対してのものだと思ってる。

 ゆえに指導者側の「厳しさ」とは、生徒や選手の考え・気持ちというものを尊重した上で実践していくべきだと私は思ってる。

 「厳しさ」とは妥協しないこと、頑固なこと、自ら苦しいことに立ち向かうこと等々になるだろう。

 これらのことを指導者側が生徒・選手に強要させることは「厳しさ」ではなく、「イジメ」になってしまうことが普通に起こっている。指導者側が「厳しさ」とは「苦しさ」を与えることと勘違いしてしまうと悲劇が生まれる。

 昔は「水を飲んでいけない」・「理不尽な理由で正座2時間」・「うさぎ跳び」を1キロとか、「厳しさ」という「イジメ」があったように思う。

 「厳しさ」と「イジメ」は確かに紙一重の部分はあるかも知れないが、指導者が「イジメ」になっている状況に気づいていない可能性もある。

 特に(私も体育教師であるが)体育教師は「本当の厳しさ」について考える必要性を感じる。「イジメ」ではない、「本当の厳しさ」を子どもたちに伝えてほしい。

 親たちも子どもたちに対して、八方ふさがりの叱り方をしていないか、考えてほしい。

 「叱ること」が「厳しさ」ではないことも知ってほしい。

 逃げ道を作って叱ることが大事だと私は思う。

 間違った「厳しさ」が「イジメ」を生み出している可能性もあるのだ。

 

 

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2012年7月 4日 (水)

「頑張る!」タイミング

 私は誰に対しても「頑張れ!」とはあまり言わない。

 決して嫌いな言葉という意味ではないが、軽く使いたくないという思いからだ。

 勿論、ここぞという時には使っている。

 スポーツの世界ではプロだろうがアマチュアだろうが、はたまた中高生だろうが、そのスポーツをやっている者の周りの人間は選手たちに対して「頑張ってね!」を連発する。応援したい気持ちが「頑張ってね。」に繋がるのだろう。

 言われる側の選手たちの多くは、まあ性格にもよると思うが「毎日、頑張ってるよ!」と心の中で呟いている。

 挨拶と変わらない感覚で捉えている選手も多いかも知れない(それが一番いいかも)が。

 

 私は通常の練習において、正常なレベルの精神・身体状態の場合、「頑張れ!」は本当に要らないと思ってる。

 人間にはバイオリズムがあり、普通に生きていても波はある。良い時・悪い時どちらもやってくる。ただ、強い選手、勝てる選手は良い時が多くなるような努力を知っている。

 反対に落ち込み出すと落ちるだけ落ちてしまうタイプもいる。

 このタイミングが「頑張れ!」である。力いっぱい「頑張れ!」と言いたい。悪いことが重なっている時。

 もうひとつのタイミングは、あと一歩の努力・気合い・根性・踏ん張りが必要な時である。

 たとえば、決勝の戦いは「頑張れ!」だろう。

 勉強にしたって同じこと。

 「頑張れ!」はここ一番で使う意識を持ってほしい。「頑張れ!」は重いのだ。

 普段、「頑張れ!」に代わる言葉、それは「努力しよう。」・「やるだけやってみよう。」・「楽しもう。」に私は置き換えている。

 

 

 

 

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2012年1月18日 (水)

いつも通り

 少し前になるがスケートの浅田真央選手が、お母さまの急逝から立ち直り、復活優勝を成し遂げた。優勝はどんな大会でも素晴らしいし、大変なこと。

 彼女は一時の不調から脱出し、これからというタイミングでのお母さまの「死」。その後、しばらく休んでからの大会出場で優勝、個人的にとても感動した。

 その復活優勝を飾る前日のインタビューで彼女は「いつも通り」という言葉を口にした。

 レベルや種目は違うが、私もいつも「平常心」・「練習通り」・そして「いつも通り」という言葉を用いて選手たちを励ましている。

 しかし、「いつも通り」は簡単に実現できることではない。「いつも通り」は、きっちり・しっかり練習(準備)ができた時、やっと生まれる言葉である。

 なかなか自然には出てこない。

 そう、「いつも通り」は意識して「いつも通り」、努力して「いつも通り」なのだ。

 

 入試に置き換えよう、「いつも通り」で入試が受けられれば合格の可能性が大となる。

 だから「いつも通り」をキープするための工夫をしよう!

 ただし、常にサボってる人にとっての「いつも通り」はマズイと思う。そいうこと!

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2011年7月 8日 (金)

子育て

 「子育て」については、色々なアドバイスや方法論は世の中に氾濫している。

 最高の「子育て」というものは無いと私は思ってる。ただ、それぞれの夫婦が考える最高の「子育て」の理想はあるかも知れない。

 私(佐藤)の最高の「子育て」の理想は、「環境は人を育てる」の格言とおり「子育てのための環境つくり」を意識してやってきたつもりである。順調に育ったかは判断しづらいが。

 何を持って最高かは確かに判断は難しい。

 

 今日は私が共鳴したスウェーデンの社会科の教科書に載っている「子ども」というタイトルの詩をご紹介したい。

 作者はドロシー・ロー・ノルト氏

 「子ども」

 批判ばかりされた子どもは 非難することをおぼえる

 殴られて大きくなった子どもは 力にたよることをおぼえる

 笑いものにされた子どもは ものをいわずにいることをおぼえる

 皮肉にさらされた子どもは 鈍い良心のもち主となる

 しかし 激励をうけた子どもは 自信をおぼえる

 寛容に出会った子どもは 忍耐をおぼえる

 称賛をうけた子どもは 評価することをおぼえる

 フェアープレーを経験した子どもは 公正をおぼえる

 友情を知る子どもは 親切をおぼえる

 安心を経験した子どもは 信頼をおぼえる

 可愛がられ抱きしめられた子どもは 世界中の愛情を感じとることをおぼえる

 以上です、いかがでしたでしょうか?どうしても紹介したかった「詩」でした。

 すべてとは言いませんが私は納得。

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2011年6月10日 (金)

「~しなさい」の効果

 幼児期「早くしなさーい!」、10~15歳「勉強しなさーい!」、高校生「勝手にしなさーい!」と言ってませんか?

 皆さまの年齢は様々なので、言い始めの方、途中の方、失敗された方、もう一度子育てできたら違うのにと思ってる方、きっと色々ですね。

 この「なになに、しなさーい!」という言い方はやめた方が良い。お母さまにしてみれば、冷静に落ち着いた雰囲気が保たれ、心地よい響きと思ってる方が多いかも知れない。

 しかし、子どもたちにとっては悪魔の囁きに聞こえてることはご存知?

 最後の「勝手にしなさーい!」は、所謂母親の敗北宣言に該当する。お子さまへの愛情表現であれば、違う言い方にしてほしい。

 余計なお世話だが、幼児期「ちゃんとしっかりやろうね!」、10~15歳「勉強って大事なんだよね!」、高校生「自分のためにやれることをやってね!」

 結局、親が子どもに伝えたいことは同じ、ならば後の方がいいと思う。

 私が子どもなら、ちょっと頑張ろうという気になる。

 

 

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